0.三十年前、新時代の子供(プロローグ)
年が明けた。
圏民が待ちに望んだ娯禅世(ゴゼンセ)の幕開けである。午前零時を針がさしたとたん、窓の外で花火が閃きだした。
「炉不(ロフ)という名前ともお別れだな。リャゴー、おめでとう」
「うん」
おめでとう、とは少年は返さない。
「父さんはな、ハンネルという名をもらったんだ」
既に個人名義の変更が始まっている。国の指導主が選出した氏名を受け入れることを義務付ける法律が施行されたのだ。
アンヴォワイエのスクリーンが歓喜に満ちた者たちを映し出す。鬼の面をかぶった子供や、川辺で家族ら数人と優雅に時間を過ごしている情景、人間将棋、獅子舞、毛むくじゃらが戦う姿、ローズパレードに手を振る大衆。世紀の変化に浮かれた人々。外で鳴り止まない花火。
「炉、いや、リャゴーも大きくなったもんだな。何歳になったんだ」
「十六だよ」
「そうか、もうそんなになったのか。じゃあやっとお前も酒が飲めるな、そうか、おれも年をとるわけだ。父さんはたったいま三十六歳になったぞ」
「ふうん」
「母さんも、もう少しで帰ってくるよ」
画面がぱっと切り替わる。アンヴォワイエに映し出されたのは、かつてこの国の混乱を鎮めた英雄の写真だった。目じりに皴を寄せて笑う晩年の風貌だった。父親がすかさず、右手拳を左胸に押し付けて唱える。
「主に、感謝を」
「主に……感謝を」
呟いたら、口内の細胞が腐敗した気がして、身震いがした。父の小さく丸まったままの背に呼びかける。
「…ちょっと外に出てくるよ」
「外か? 冷えるぞ」
「うん。花火……見たいから」
部屋を出てドアを閉める。すぅっと息を吸い込む。本当は花火なんてちっとも見たくなかった。だけど、できるだけはやくここを出ていきたかった。
玄関はしんとしていた。なまぬるい空気が漂っている。冷暖房の調節機能の緻密さに身震いがする。気味が悪い。親指をセンサーにかざす。女性の認証しましたという硬質な音声が響き、玄関のセキュリティーチェックが解除された。脱出。憂鬱。
ばかばかしい。呟いてみる。
本当にばかばかしい。
安全な内側から外に出るために厳重な認証システムが設けられているなんて、どう考えても可笑しいじゃないか。どうして誰も疑わないんだ。
外に出るとさすような寒気が肌を刺激した。寒い。遠くで火薬が爆発する音がする。人々の歓声が拡散して響き渡る。地面の水溜りが半分凍りかけている。踏むとぱりっという音とともに、氷の割れる感触がした。しゃがみこんで、人差し指でそっと触れる。尖った氷の板の切り口に引っ掛かる。線が走る。赤い液体が垂れる。指が切れた。ぴりりとして痛い。
自分の身を守れない。
平穏さに紛れると何も感じなくなる、他者に守ってもらえているという感覚、自分たちの日常が揺らがないという自信。それが紛い物だと誰も言わない。誰もが言わせない。
父さんも母さんもばかだ。
なにも気づかないんだ。何にも疑問を持たないこと、それがどんなに危険なことか知らなかった。
祖父が生まれた年に、この国で革命が起こったという。
だがそれを直接的に見て感じたわけではない。わかる、ということと知っている、ということのあいだには見えるようで見えない大きな格差がある。
当時、相次いだ内戦は救世主と崇められた一人の男の手によって終息した。彼の名はミルタス。紛争の爪あとを色濃く残したこの国を瞬く間に再建へと導き、新たなる規律を作り、新たな新世界の極致ともいうべき国としての概念を練り直し世界に提示すべく見事に実現させた。
人々は幸せであるべきだ。
幸せのために、この国のありあまる富をできるだけ皆で分け合おう。安心できる世の中を一緒に作り上げよう。
そう声高に叫んだ声に群がるように人は英雄の声に従い始めた。戦で大切な人々を失ってしまった人々を励ますために、新しい弔いの作法を生み出し、結果弔いに勝る民衆の新たな信仰精神を生み出した。
死んだ人々は神々の恩恵を授かり、必ず我らの元へ帰ってくるのです。そう、貴方の生きるうちに、必ず。
その言葉に人々は生きる希望を見出し、そうして、昨年、惜しまれながらも永眠した英雄の後釜にはその子息が収まった。
なにかが残る。
少年は幼いながらに思索した。
しこりのような、わだかまり? 不快感? なんだか、キモチワルイ。
子供は実直だから、矛盾や引っかかりをうまく探し出す。
大人はだめだ。感覚が鈍っているのか、一度信じきったことを簡単には疑わない。だから、自分が。
この国を動かす傲慢な大人が、子供をなめきっている。
一六歳になった。十六年生きてきた。一六年の意識の塊が世の中を見渡せないわけがない。安息に埋もれていなくてはいけないこの世界に十年もの間、幸せな振りをしなくてはいけなかった。装い通すしか術がないことに何度落胆しても、その行為をやめることができない。そのことが心底悔しい。悔しくも、だが憎々しい行いだ。それは怠惰である。わかっている。
昨日の夢を思い出す。
空が、淀んでいた。
昨晩は雨が降ったのだ。音も何も気配さえ通さない分厚い壁の内側に身を置いていたのに、雨が降ったと感じた。
鈍らない感覚。大衆のほとんどの人間が忘れた感覚、他者が感じることをやめた第六感が自身の中にあることを自覚していた。たまに疼く。これがきりきりと疼くとき、不意に常識と教えられてきた事柄や、他者の発言する言葉に疑問が湧く。
正しいのか? それは、僕たちが信じてきたそれらは、ほんとうに正しいものなのか?
覆しようのない違和感だった。その問いは内面に張り付いて、なけなしで信じてきた自負や自尊心を引っかいた。傷つけ、不信感へ陥れる。それなのに、身悶えるほどの苦痛を、嫌悪を誰かに示唆することは許されない。苦しんでいる。
双眸があいまいに捕らえている暗黒の氷層一面にぱっと大きな花が咲いた。
空を仰ぐ。
まるで流星の欠片が飛散するような輝き。耳を劈く大きな爆発音。あざやかなきらめきは一瞬で散り、表舞台の華麗な光のシャワーによって、無理やり煙のうねる暗鬱な空を誤魔化している。
またひとつ、歓喜の打ち上げが、刹那、彼の顔を照らした。
繰り返し続いていく欺瞞に満ちた日々を、少年はまだ睨みつけることしか出来なかった。
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