ヘイガーはときたま実存主義的に現実逃避を実行したくなる。ヘイガーは「ウエコー」までオンボロのミニのマイカーを走らせる。タイヤの空気が抜け始めていて、座席ごとをゴトゴト揺さぶられながらも入り口の発券機から吐き出された薄黄色の駐車券を受け取った途端むしゃむしゃと唾液で湿らせて胃にしまいこんだ。
まず最初にベビーカーに意識の向かない若い母親共をブツブツ陰湿に罵りながら、よそ見したママたちの目を盗んで眠りかけの赤ん坊の頬をぱちんと叩いて逃げる。本屋の入り口を急ぎ足で潜り抜けて、この国の崩壊についてと搾取を娯楽とする経営者たちの贅沢三昧とを特集した本を2冊買い、となりのロイホまで走って行ってウェイトレスにそれらの書籍を投げつける。しねと心の中で唱えるのを忘れない。みんな死ね。ヘイガーは100の自分の顔を欲しがっていて、そのときはスキンヘッドのパンクな風貌だったのを一変、店から出たすぐのトイレで気弱な病弱少年がやっと立っているみたいな頼りないヘロヘロの襟口のカジュアルなスタイルに着替え、ボサボサの黒髪ウィッグを被ってまるっきりの別人としてウエコーとさよならする。
オンボロのミニは置き去りでみんながみんな困ればいい。ヘイガーは想像してそれでベットにうつぶせている。全てヘイガーの可哀想な脳みそが作り出した空想だ。実際にはこんなこと起こりっこない。ヘイガーは悲しくなる。こんなに神経質で腰抜けで、他人が大嫌いな自分の存在が世界の中での最大のマイナスなんじゃないか?
清く正しく生きなさいと教育されてきて、それでヘイガーは酷いパラドックスに毎晩うなされる。人を殺したいほど憎んだことまでなしにしろというのなら、溜め込んでお前が死ねと言うのか? まさにそうだろうが、クソが。とヘイガーは誰もいない真っ暗で狭苦しいワンルームの室内に独り言をつぶやく。
「そこにいるのか」
何も見えやしない部屋の中の生ぬるい空気の中で息づく、見たこともない位美しい毛並みを持つ「のら(野良)」の魂がそこに浮遊しているからしょうがなしに相手してやる。
「なにもないだろ、たべものなんてよ」
サカナの固細胞の片鱗を探している見えるはずのない猫の幽霊に向かってひとりでに呼びかけている。
俺も猫ならよかった。ヘイガーは思う。空虚の生命とろくでもないこのねっころがった無駄な生命のために思う。もしも俺がお前だったなら、誰にも見えなくていいから、たまたま通りがかった家先でねっころがったどうしようもねえ酔狂人がどうしようもねえ透明生物のヤツらと会話をしようとしてる場面に立ち会えたら、そしたら、そしたらそれでよかったのに。
ヘイガーは舌を噛み切るために根元をきつくかみ締めたが許容外の圧迫をかけられなくて死にそこなう。猫の気配が消えた。気がした。
一人ぼっちで、あしたかあさってか、リビングの隅のほうで包丁を首につきたてて血だるまで倒れている自分の姿を思い浮かべる。やっぱり、ベランダから飛び降りてしまおうか。ガラガラ締め切った雨戸でも久しぶりに開けてみるかと考えていると、茶色のくまがやってきてこういった。
「バカかお前」
「バカって何だよ」ヘイガーはムカムカした。
「バカかお前、いまねんねしてるじゃねぇかよ。包丁だってベランダだって結局おねんねするんだ。なにも変わらねーよ」
ヘイガーはくまが公衆の面前の鼻先に自分の飛び散った肉片を見せ付けている光景が思い浮かんでいらいらしたので黙ってベッドの中でねんねした。
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